八田與一
八田與一(はった よいち)は、台湾の農地開拓のために、全身全霊を捧げましたね。
日本は、日清戦争に勝ち、1895年から50年間、太平洋戦争が終わるまで、台湾を占領しました。日本は台湾を単なる植民地として、米や砂糖の産地にするのではなく、行政、教育、産業に力を入れ、近代化し、「日本」のようにしました。
そんな中、八田氏は、東大の土木科を卒業し、24歳のとき、日本政府の土木技術者として、台湾に渡りました。1910年のことです。
そして、台湾総督府(日本政府の台湾支部)の土木部に所属し、台湾の南部において大規模な潅漑事業を行いました。用水を引き、ダムをつくり、不毛の「嘉南平野」を、広大な農地に変えました。
八田氏は、作業に従事した現地の人々を極めて公平にあつかい、台湾のために全身全霊を捧げたため、現地の人々から大変感謝され、尊敬されました。八田氏は、1942年、終戦の3年前、フィリピンへ向かう海上で死亡しました。
1983年、この年も、八田氏の命日である5月8日に、台南で八田氏の慰霊祭が行われました。そこに1人の日本人が参列した折、現地の人たちの会話が聞こえてきました。
流ちょうな日本語です。
「八田さんが生きていたら、96歳やな」
「八田さんが工事をしなかったら、米がとれる土地にはならなんだ。大恩人や」
「いや、大恩人というより神様や」
その日本人が、
「日本人のために、このような慰霊祭をしていただいてありがとうございます」と頭を下げると、「違う違う、八田さんは亡くなって台湾人になったのです。お礼を言うのは私たちの方ですよ」と言われたそうです。
この会話が、八田氏がいかに「公」のために、任務に忠実に、台湾のために生きたか、そのすべてを物語っています。八田氏は、台南の荒れ地を農地に変えるという大きな「公」の夢を実現しました。苦労が多かったですが、夢を実現して、幸せな人生だったと思います。
今、八田氏は銅像になり、神様になり、丘の上から、台南の農地を毎日眺めています。