maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

伊能忠敬

江戸時代に伊能忠敬が作製した日本地図は、国宝となっています。非常に精密な地図で、当時の日本海軍やイギリス海軍から、高く評価されました。

 

忠敬は、50歳で隠居するまでは、有能な商人として働き、隠居以後は、72歳まで日本地図の作製に身を投じました。忠敬は18歳のとき、「伊能家」の養子になりました。村の名主という家柄で、酒造業、農業、倉庫業、回船業、貸金業などを営んでいました。場所は、今の千葉県である下総の国、香取郡の佐原村です。

 

忠敬が偉かったことは、商人として大いに稼ぐ一方、必要なときには、村民のために私財を差し出したことです。忠敬が38歳のとき、天明の大飢饉が襲います。利根川が氾濫し、農民は洪水により大損害を受け、食べるものに困る状態でした。忠敬は、私財から村民に米や金銭を与え、1人の餓死者も出さなかったといわれています。

 

50歳で隠居した忠敬は、天文学の勉強を始めます。そして56歳のとき、幕府に申し出て、日本全国を歩いて測量し始め、17年後に精密な日本地図を作製します。数名で「測量隊」を結成し、歩いて測量をしました。歩幅を決めて、歩数で計ったり、「測量車」を転がしたり、縄や鎖を使って計ったり、当時の不十分な測量機器でよく正確な地図を作ったものだと思います。

 

忠敬については多くの研究がされました。「普通の人」であったが、「世のため、人のため」という気持ちが強く、それで17年間も測量が続けられた、という見方があります。

 

その通りだと思います。近代国家に必要な「精密な日本地図」を作る、という大きな夢があったので、17年間、苦しい測量の旅を続けられたのだと思います。

 

「夢」を持つことにより、強い「力」に背中を押されながら、全国を歩くことができたのだと思います。ある研究によれば、17年間で「4千万歩」歩いた計算になるそうです。

 

50歳まで、村の名主として、村民のために「公」に生き、50歳以後は、死ぬ2年前まで、「公」のために測量し、日本地図を完成するという、2回も「公」の人生を生きました。

(以上、ネット情報を参照しました)

 

「公」の目的に向かう人の背中を、強い「力」が押したのです。