maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

あきらめない人

絶対にあきらめない日本人がいました。

 

その人は28歳のとき、中国に農業調査のため留学しますが、日中戦争のため帰国します。

このとき、内モンゴルで、農地が次々に砂漠化し、多数の農民が餓死、あるいは農地を捨て去るのをその眼で見たようです。

 

その後、京都大学を卒業したあと、56歳で、農学博士になります。博士論文は、「砂丘地に適する作物について」でした。まさに、「砂漠から農地へ」が生涯のテーマになりました。

 

その人は、「遠山正瑛」氏(1906〜2004)です。テレビのドキュメンタリー番組もつくられました。

 

66歳で定年退職した遠山氏は、早速自費で中国に行きます。内モンゴルの砂漠を農地に変えるという夢をもち、たった1人でした。

 

まず、農業には水が必要です。遠山氏は砂漠の下にも水脈はあることを知っていました。そして炎天下、40℃の砂漠を、毎日何十kmも歩き回り、ついに水脈を見つけます。

 

しかしそれからが、日本と中国を往復しながらの、苦難と不運の連続でした。

 

当初、遠山氏は地元の人々から、日本人スパイと疑われ、苗木を植えても、すべて引き抜かれる始末でした。しかし、粘り強く住民を説得し、徐々に理解を得るようになります。

 

日本でお金をつくっては中国に行き、悪銭苦闘しながら、砂漠の「緑化」事業に取り組むうち、80歳を迎えます。

 

砂漠に適すると信じて植えた3千本の「葛」(くず)が、1晩で、放牧中の「山羊」に全部食べられてしまいます。葛をあきらめ、次に植えたポプラ百万本が、黄河の氾濫により、一夜にして、すべて流されてしまいます。

 

それでもあきらめずに、再び植えたポプラ百万本が、2万ヘクタールの「死の砂漠」を「緑の農地」に変えました。(以上、ネット情報を参照しました)

 

90歳のとき、現地に「恩人」として、銅像が建てられました。そして、2004年、97歳で永眠します。モンゴルの人々に「与える」夢を持ち、その夢が実現しました。苦労と同じだけの幸せに満たされた人生だったと思います。