maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

一区切り

2020年4月7日から、ほぼ毎日続けてきたこのブログも、今日で一区切りにしたいと思います。

 

今まで読んで頂いて、ありがとうございました!

 

2020年2月20日という日は、僕にとり、本当に特別な日でした。

 

自分の人生の証として、なんとなく、ポツポツと文章を書いていたのですが、その、

2月20日に、急に、「ショート・スピーチのようなスタイルで書けば良い」との思いが閃きました。その日から、何かすごい力に背中を押されるように、ショート・エッセイを書き始めました。

 

それから今年の春までに、500近くのショート・エッセイを書き、それをこれまで、このブログに載せてきました。

 

書くうちに、「幸せとはなんだろう」というテーマに突き当たり、後半は、そのテーマについて考え、書きました。

 

手製の随筆集は、第5集まで発行し、友人などに配りました。実際には、その後も続けて、第11集まで書いたのですが、製本はせず、原稿のみ保管しています。

 

それから、小学校以来、急にスケッチがしたくなり、色鉛筆のスケッチも、40枚ほど描きました。

 

2020年は本当に、特別な年でした。

 

長い人生でも、特筆すべき1年でした。

 

今は、人生で初めて、小説に興味が湧き、図書館から借りては読みふけっています。

 

ともかく、昨年春から今年の春にかけての1年は、「不思議な」1年でした。人生にはこういう時もあるのですね。

 

コロナ禍が収まり、平和で安全な日々が早く戻ってくることを念じています。

 

 

 

長嶋監督

長嶋茂雄さんは、黄金の人生と、いぶし銀の人生を

両方生きてきました。

 

野球の選手として、大学時代も、プロになってからも、

これ以上ないほど大活躍し、数々の栄誉に輝きました。

野球という「夢」を達成し、まさに、「黄金」の人生です。

 

しかし、引退したあと、脳梗塞を患い、現在もリハビリの最中です。

 

長嶋さんのリハビリの様子を聞いたことがありますが、

それはそれは、ものすごく元気に、毎日たくさんの

レーニングをしたようです。

 

トレーナーと2人で、大きな声で、ワッセ、ワッセと、

歩いたり、走ったりしていたのをテレビで見ました。

 

また、室内のリハビリ運動も、毎日長時間、頑張っていたようです。

 

現在の「夢」は、後遺症を克服することでしょう。

 

どんな環境でも、長嶋監督はすごい、と敬服しました。

 

引退してから、「私ほど、野球を練習した者はいない」と、人に見えないところで

いかにたくさん練習したか、話したそうです。世間では、「天才」とほめそやし

ましたが、実際は血の出るような練習だったわけです。

 

最近の長嶋さんは、体力も落ちていると思いますが、

「いぶし銀」の人生を送っているようです。

 

私に、リハビリ中の友人がいますが、リハビリ・センターのエレベーターで、

長嶋さんに声をかけられ、すごく元気づけられたそうです。

 

最近、長嶋監督のインタビューを、テレビで拝見しましたが、

その、変わらぬ「情熱的」な話しぶりに尊敬の念を深くしました。

 

生涯、巨人軍の「四番、サード、長嶋」であり、人々に感動を与えています。

金か銀か

皆さんは、金と銀とどちらが好きですか?

 

2020年8月13日、テレビで、フランスのルイ14世ヴェルサイユ宮殿のストーリーをやっていましたが、宮殿内部の装飾が「金キラ」過ぎて、とても私にはダメです。ロシアのクレムリン宮殿もすごいですね。金キラです。イギリスのバッキンガム宮殿も多分そうなのでしょう。

 

「金キラ」はきらびやかで、観光客に喜ばれるでしょう。

 

京都には、金閣寺銀閣寺があり、どちらも人気があります。

私は、金閣は、美しいと思いながらも、さっと通り過ぎて終わりですが、

銀閣では、静かに、古びた建物や、石と苔の庭をながめ、ゆっくり散歩します。

 

日本に住みつくような外国人は、おそらく銀閣を選ぶでしょう。方丈の縁側に座り、何時間も庭をながめる、というのは、日本ならではの楽しみだと思います。

 

金は「カネ」の美、銀は「心」の美、と言えないでしょうか。

 

私は、現役の頃は、お金持ちになって金色の腕時計や、豪華な自動車を買うことにあこがれましたが、最近は、派手な「金」よりは地味な「銀」を好むようになりました。

 

かつて、奈良を訪ねましたが、田んぼの真ん中にある平城京跡や薬師寺に感銘を受けました。華美とは程遠い、シンプルな、あるいは地味な佇まいが素晴らしかったです。

 

それから、私が生まれ育ったは鎌倉は、武士の町らしく、神社仏閣にも派手さはなく、落ち着いた佇まいです。

 

京都は、奈良や鎌倉の「銀」も、華美な「金」も、すべてを包み込んだ、多様な町だと思います。

 

私たちの人生でいえば、地位・財産・名誉は「金」で、その反対が「銀」だといえるでしょう。

「Jリーグ」生みの親

プロ・サッカーの「Jリーグ」を創設した、川淵三郎という人がいますね。

 

1993年にJリーグができる前の日本のサッカーといえば、土のグラウンドで、実業団リーグという、会社のサッカー部同士の試合でした。観客席も小さく、観客は、一握りでした。

 

しかし、日本サッカーは強かったです。1964年の東京オリンピックで、銅メダルをとりました。

 

それでも、プロ野球のような「国民的」な人気スポーツとは、ほど遠い状態でした。

 

それを、ヨーロッパのような、人気スポーツにしたのが、川淵三郎氏です。

 

これだけですと、「プロ・サッカーの恩人」という評価のみですが、偉いのは、「Bリーグ」という、同氏には畑違いの、プロ・バスケットボール・リーグをも、つくったことです。これは2015年でした。

 

バスケットボール界では2つのリーグが対立し、泥沼の「ケンカ」状態でした。これを見かねた国際バスケットボール協会が、期限をきり、それまでに、1つのリーグに統一しなければ、日本を国際バスケットボール協会から除名すると警告したのです。

 

2つの対立するリーグを仲良くさせるのは、至難の業と思われ、誰も手を上げませんでした。これを見かねて立ち上がったのが、サッカーの川淵氏です。

(川淵氏についてはネット情報を参照しました)

 

そして、強い「リーダーシップ」を発揮し、見事に2つのリーグを統一、「Bリーグ」を発足させました。その後のバスケットボール界の発展はめざましく、数人の日本人選手がアメリカのプロ・リーグでプレイするまでになりました。

 

川淵氏は、地位や名声よりも、日本のサッカーやバスケットボールを何とかしなければ、という「公」の意識が強かったと思います。

 

そうでなければ、国民的人気のなかったサッカーやバスケットボールをプロによる人気スポーツにするという離れ業を達成できたはずがありません。

 

川淵氏は、サッカーやバスケの発展を眺めながら、幸せな人生を送っていると思います。

中村のおじさん

アフガニスタンで「中村のおじさん」と呼ばれていたのは、中村哲さんです。

 

中村さんは、九州大学を卒業した医師で、30年間、パキスタンハンセン病患者の治療を行い、またアフガニスタンで農地開拓に力を注ぎました。

 

しかし残念ながら、2019年12月、アフガニスタンの現地を車で移動中、武装勢力により射殺され,73歳で人生を閉じました。場所は、中村さんが活動していたジャララバードです。治安が悪く、車に同乗していた4人の護衛全員も射殺されました。

 

中村さんの葬儀は日本で行われ、安部首相はじめ、各大臣、各政党の党首も参列し、アフガニスタンの「宝」、日本の「宝」の死を悼みました。

 

棺が、アフガニスタンの国旗に包まれたことをみても、中村さんがいかに偉大な存在だったかがわかります。

 

中村さんは、「ペシャワール会」というNGOパキスタン現地代表でしたが、給料はありません。定期的に福岡に帰り、医療活動を行うことによる収入を家族の生活費に充てました。

 

なぜ、中村さんは、無収入で、自分のすべてを投げ出し、アフガニスタンのために働いたのか。それは、人の役に立つことがたまらなくうれしかったからです。それで幸せでした。

 

2000年5月、アフガニスタンは大干ばつに見舞われます。作物が全滅し、食糧がありません。潅漑していないので、雨が降らないと、作物ができないのです。

 

中村さんは、アフガニスタンの人たちの健康問題は、食糧不足と栄養失調にあると考え、「100の診療所より1本の用水路を!」と提唱し、2003年から、用水路の建設に着手しました。自らも、シャベルを持ち、建機を運転して工事に加わりました。荒れ地に井戸を掘り、農地に変える事業に専念しました。これで65万人の住民のための食糧が得られました。

(以上、ネット情報を参照しました)

 

砂漠が広大な農地に変わったのを眺め、「中村のおじさん」は幸せだったと思います。

 

中村のおじさんは、アフガニスタンでは、神様のように尊敬されました。日本の誇りです。まだまだやり残したことがあると思いますが、幸せな人生だったと思います。

旭山動物園

最大のピンチを、最大のチャンスに変えた人として、小菅正夫氏(1948〜)がいます。

 

小菅さんは、廃業寸前だった北海道、旭川市営の、「旭山動物園」を復活させた人です。

 

小菅さんが、北海道大学を卒業し、獣医師として、旭山動物園に就職したのは1973年。当時入園者は減り続け、経営不振のため、市では閉園を決めていました。

 

繁殖の研究者である小菅さんは、自分の研究を中断し、潰れそうな動物園を復活させると、腹を決めます。それが、ご本人曰く「覚悟の瞬間」でした。

 

来場者にアンケート調査したところ、「動かない」動物を見ても「つまらない」という結果だったので、小菅さんは「動物舎改造計画」をつくり、「行動展示」による動物園の復活を目指します。「動く」動物を見せよう、というのです。

 

ところが動物園にも、市役所にも、小菅さんに耳を傾ける人は誰もおらず、孤軍奮闘が始まります。小菅さんはあきらめずに、人生を賭けて頑張りました。

 

1996年、小菅さんが園長になったとき、入園者はわずか年間26万人でした。

 

1997年から、「行動展示」のための新しい施設をつくり始め、8年後の2005年度には8倍の206万人にまで増えました。さらに2007年度には、12倍の307万人となり、上野公園に次ぎ、日本で第2位になりました。

 

「行動展示」とは、たとえば、「水中トンネル」ではペンギンの遊泳を、「巨大プール」ではシロクマが豪快に飛び込むのを、ガラス越しに目の前で見られます。「こども牧場」ではうさぎや山羊、羊などに「触れる」ことができ、大人気となりました。(以上、ネット情報を参照しました)

 

誰からも相手にされず、孤立無援だった小菅さんが、頑張ることができたのは、見に来る人たちのため、旭川、北海道のために、面白い動物園をつくる、という「公」の目的と夢があったからです。

 

「覚悟の瞬間」何かの強い「力」が、小菅さんの背中を押しました。その「力」に押されて、小菅さんは、どん底の動物園を建て直し、発展させ、夢を達成しました。

 

小菅さんは今、講演活動をして、自分の経験を多くの人に話しています。

李登輝

2020年9月19日、台湾の元総統であった李登輝氏の葬儀が、台湾で行われていました。日本からは、森 喜朗元総理が参列しています。

 

「公」に生き、台湾民主化の「父」と尊敬される李登輝氏は、残念ながら、去る2020年7月30日に97歳で永眠しました。

 

李登輝氏は、1996年に台湾人として初めて、国民による直接選挙により、「台湾」の「総統」となりました。これで、1948年に中国大陸から、共産党に負けて逃げてきた「中華民国」の蒋介石政権による台湾支配が終わり、台湾は実質的に「独立」しました。

 

しかし、大陸の中国共産党は、台湾は「中国の一部」であると主張し、台湾独立を認めず、台湾海峡にミサイルを撃ち込みました。これに対し、アメリカ海軍は空母2隻を派遣し、対抗しました。

 

現在も、台湾海峡の緊張状態は続いています。アメリカ海軍と中共海軍が台湾海峡や周辺で軍事演習をし、いつ戦闘がはじまるか、という事態です。

 

人口でいえば、台湾の2千3百万人に対し、中共は14億人です。しかし、李登輝中共の脅迫に屈しませんでした。普通の人だったら、恐怖で夜も眠れなかったと思います。

 

数々の困難を、李登輝氏は巧みに克服し、「民主化」と実質的な「独立」という2つの「公」の目的を達成しました。

 

そして、同氏は戦後の日本に対し、「日本精神」を忘れたのか、しっかりせよ、と叱咤激励し続けました。

 

同氏は、日本統治時代を称賛し、終生、自分は「日本人」であると、誇りにしていました。

そして日本、米国を始め、世界から尊敬され、惜しまれながら、永眠しました。

 

幸せだったと思います。

 

国の指導者が「私利私欲」にはしると、退任後は投獄、自殺、暗殺、亡命など、不幸な人生で終わります。

 

「公」は幸せ、「私」は不幸です。