maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

父来る(2)

僕が高校3年生として寄宿生活を送っていたグロトン校に、父がやって来ました。

 父には何も親孝行らしいことをしませんでしたが、唯一、僕が留学したことで、アメリカに来る機会をつくってあげられたのが、良かったです。

 父が来たのは、1962年6月中旬の卒業式(Prize Day)に参列するためです。僕の1年間の留学生活もこれで終わります。

 早速、校長のお宅に父を案内しました。ジョン・クロッカー夫妻は、快く迎えてくれました。隣のゲスト・ハウスに、父は2泊3日、お世話になります。

 父は日頃、大学時代に、英国人の先生から授業を受けたと自慢していたのですが、今回、英語は全然話せませんでした。喉元まで来ているらしいのですが、ついに英語は出てきませんでした。1度、” I am・・”と言おうとして、

” I be ・・” まで言いました。父が気を悪くしないように、通訳しました。

 卒業式当日になりました。講堂は親たちで一杯です。卒業生が名前を呼ばれ、前に出て、卒業証書を受け取るのですが、そのとき、成績の良かった生徒は、ラテン語で、「クム・ラウドゥ」(cum laude)(優秀)とか、称号をつけて呼ばれます。僕には何も称号がつかなかったので、あとで父からがっかりしたと言われました。

 僕としては、怠けるどころか、過労で校内病院に2日入院するほど、頑張ったので、後悔はありませんでした。9月の新学期から、クリスマス休暇まで、授業内容がほとんど分からず、最初の半年は苦労しました。

 しかし、人間関係などでは、いやな思いは一度もせず、先生や同級生は暖かく受け入れてくれました。同級生のN君とは、58年経った今も、夫婦同士で日米を訪問し合い、交流が続いています。

 さて、式が終わると校庭に出て、1列に並んだ先生たち全員と順番に握手しました。僕は、グロトン公の紺のブレザーを着て、お揃いのストライプのネクタイを結び、お揃いの平たいハットという晴れ姿です。

 帰国が近づき、日本に帰ったら、2度とアメリカに来ることはできないと思い、寂しかったです。