maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

沢田美喜

太平洋戦争が終わって3年がたった1948年、神奈川県の大磯に、「エリザベス・サンダース・ホーム」という孤児院を創設したのが、沢田美喜さんです。ホームは黒人兵と日本人女性の間に生まれた混血児のための施設です。小学校も、中学校もつくりました。

 

太平洋戦争が終わり、米軍が日本に来て、「進駐軍」として7年間日本を占領しました。沢田美喜さんの悪い予感のように、進駐軍がきてから9ヶ月後には、米兵と日本人女性の間に混血児が生まれ、多くが「孤児」になりました。特に黒人兵と日本人女性の間に生まれた多くの混血児が、街のあちこちに捨てられるようになりました。

 

美喜さんが、特攻隊から生還した次男に会うため、京都に行く途中、東海道線の中で、新聞紙に包んで網棚に捨てられていた、乳児の死体が発見されました。近くに座っていた美喜さんは、警官に母親と間違われ、ひどい目にあいました。

 

このとき、美喜さんは、混血児を救おうと決心します。

 

美喜さんは以前、外交官の夫とロンドンにいたとき、ある孤児院を訪問し、子どもたちが明るく、立派に育っているのを見たので、そのような孤児院を日本につくろうと思いました。

 

美喜さんは、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の孫です。大磯にあった岩崎別邸は、国に税金として収めていましたが、美喜さんは、それを買い戻して孤児院にするため、全財産を処分し、借金もしました。

 

それからの苦労は、並大抵のものではありませんでしたが、美喜さんは頑張り通し、1955年には昭和天皇ご夫妻をお迎えするまでになりました。

 

戦後の食糧難で、美喜さんは子どもたちに食べさせるのに苦労しました。一方、進駐軍にとり、美喜さんが運営する孤児院は目障りな存在でした。混血孤児の存在は、米国の「恥」だったからです。これも美喜さんの苦労の種でした。

 

孤児たちを軽蔑、差別する日本社会とも、美喜さんは闘いました。子どもたちを大磯の海で海水浴させることができず、夫の実家がある鳥取まで連れて行ったこともありました。

 

美喜さんが、これだけの苦労に耐え、頑張れたのは、目的が「公」だったためです。自分の利益のためなら、とてもできなかったでしょう。強い力に押され、「夢」が実現しました。

横浜・高島町

横浜に高島町という町があります。この町は、「高島嘉右衛門」(たかしま かえもん)という人にちなんで命名されたんですね。

 

汽笛一声、「新橋」を出発した列車が蒸気機関車に引かれて、「横浜」まで走ったのは明治5年、1872年ですが、この日本最初の鉄道の実現に貢献したのが、高島嘉右衛門です。

 

嘉右衛門は、東京に生まれ、実家は材木商の他に、土木建築業もしており、横浜で、外国公館や外国人用の和洋折衷の旅館を建築していました。

 

1870年、嘉右衛門は、明治政府の重鎮、伊藤博文大隈重信に、新橋―横浜間の鉄道建設の免許を申請します。そして、2年後に開通しました。驚異的なスピードです。

 

この鉄道の建設では、線路の距離を短くするため、かなりの部分、沿岸の海を埋め立てました。その埋め立て工事を請け負ったのが、嘉右衛門です。横浜港の一部も埋め立てられ、その場所が現在「高島町」と呼ばれています。

 

嘉右衛門は鉄道事業の他にも、横浜にガス会社を設立し、街に初めてガス灯をともすなど、公共的な事業も行いました。(以上、ネット情報を参照しました)

 

事業をするうちに、壮大な「公」の夢をもち、実現した嘉右衛門は幸せだったと思います。その証拠に、亡くなる3ヶ月前、嘉右衛門は以下のことばを残しました。

 

「日本全土を鉄道の網でおおいつくすということは、明治二年(注:1869年)に私が初めて計画したことでした。この夢が実現し、東京に中央停車場(注:東京駅)が完成したら、その日のうちに死んでも悔いはないと、その時、思いつめたものです。幸いその年にイギリスから帰国した井上勝君が一生を賭けてこのことにあたってくれたので、私の夢も実現しましたが、・・・東京停車場の落成祝いにはとうてい出席はできますまい。まあ、この家からも汽車の通行は眼下に見おろせます。私が若い頃に埋めたてた土地の上に建設された線路を走って。高島町の駅に東京駅発の蒸気車が通るのは、あの世から見物しましょうか。」

(COQTEZ BLOGより引用)

 

嘉右衛門は、東京駅を中心に、日本全国に鉄道を敷くという大きな夢をもち、その第1歩を踏み出しましたが、惜しくも、東京駅が完成する2ヶ月前に、横浜の高島台で永眠します。1914年10月17日でした。

八田與一

八田與一(はった よいち)は、台湾の農地開拓のために、全身全霊を捧げましたね。

 

日本は、日清戦争に勝ち、1895年から50年間、太平洋戦争が終わるまで、台湾を占領しました。日本は台湾を単なる植民地として、米や砂糖の産地にするのではなく、行政、教育、産業に力を入れ、近代化し、「日本」のようにしました。

 

そんな中、八田氏は、東大の土木科を卒業し、24歳のとき、日本政府の土木技術者として、台湾に渡りました。1910年のことです。

 

そして、台湾総督府(日本政府の台湾支部)の土木部に所属し、台湾の南部において大規模な潅漑事業を行いました。用水を引き、ダムをつくり、不毛の「嘉南平野」を、広大な農地に変えました。

 

八田氏は、作業に従事した現地の人々を極めて公平にあつかい、台湾のために全身全霊を捧げたため、現地の人々から大変感謝され、尊敬されました。八田氏は、1942年、終戦の3年前、フィリピンへ向かう海上で死亡しました。

 

1983年、この年も、八田氏の命日である5月8日に、台南で八田氏の慰霊祭が行われました。そこに1人の日本人が参列した折、現地の人たちの会話が聞こえてきました。

 

流ちょうな日本語です。

「八田さんが生きていたら、96歳やな」

「八田さんが工事をしなかったら、米がとれる土地にはならなんだ。大恩人や」

「いや、大恩人というより神様や」

 

その日本人が、

「日本人のために、このような慰霊祭をしていただいてありがとうございます」と頭を下げると、「違う違う、八田さんは亡くなって台湾人になったのです。お礼を言うのは私たちの方ですよ」と言われたそうです。

 

この会話が、八田氏がいかに「公」のために、任務に忠実に、台湾のために生きたか、そのすべてを物語っています。八田氏は、台南の荒れ地を農地に変えるという大きな「公」の夢を実現しました。苦労が多かったですが、夢を実現して、幸せな人生だったと思います。

 

今、八田氏は銅像になり、神様になり、丘の上から、台南の農地を毎日眺めています。

伊能忠敬

江戸時代に伊能忠敬が作製した日本地図は、国宝となっています。非常に精密な地図で、当時の日本海軍やイギリス海軍から、高く評価されました。

 

忠敬は、50歳で隠居するまでは、有能な商人として働き、隠居以後は、72歳まで日本地図の作製に身を投じました。忠敬は18歳のとき、「伊能家」の養子になりました。村の名主という家柄で、酒造業、農業、倉庫業、回船業、貸金業などを営んでいました。場所は、今の千葉県である下総の国、香取郡の佐原村です。

 

忠敬が偉かったことは、商人として大いに稼ぐ一方、必要なときには、村民のために私財を差し出したことです。忠敬が38歳のとき、天明の大飢饉が襲います。利根川が氾濫し、農民は洪水により大損害を受け、食べるものに困る状態でした。忠敬は、私財から村民に米や金銭を与え、1人の餓死者も出さなかったといわれています。

 

50歳で隠居した忠敬は、天文学の勉強を始めます。そして56歳のとき、幕府に申し出て、日本全国を歩いて測量し始め、17年後に精密な日本地図を作製します。数名で「測量隊」を結成し、歩いて測量をしました。歩幅を決めて、歩数で計ったり、「測量車」を転がしたり、縄や鎖を使って計ったり、当時の不十分な測量機器でよく正確な地図を作ったものだと思います。

 

忠敬については多くの研究がされました。「普通の人」であったが、「世のため、人のため」という気持ちが強く、それで17年間も測量が続けられた、という見方があります。

 

その通りだと思います。近代国家に必要な「精密な日本地図」を作る、という大きな夢があったので、17年間、苦しい測量の旅を続けられたのだと思います。

 

「夢」を持つことにより、強い「力」に背中を押されながら、全国を歩くことができたのだと思います。ある研究によれば、17年間で「4千万歩」歩いた計算になるそうです。

 

50歳まで、村の名主として、村民のために「公」に生き、50歳以後は、死ぬ2年前まで、「公」のために測量し、日本地図を完成するという、2回も「公」の人生を生きました。

(以上、ネット情報を参照しました)

 

「公」の目的に向かう人の背中を、強い「力」が押したのです。

鑑真和尚

「諦めなかった」人として、鑑真和尚 (がんじんおしょう) がいますね。

 

鑑真は中国の高僧で、日本に招かれていましたが、渡日に6回失敗します。しかし諦めず、7回目にようやく来日に成功します。11年かかりました。その間に両眼を失明します。

 

遣唐使の時代、8世紀の半ばですが、当時日本には、「授戒」できる高僧がいませんでした。授戒を受けず、自分で出家を宣言した僧は「私度僧」です。

 

そこで聖武天皇は、僧の栄叡らを中国に派遣し、「授戒僧」を連れてくることにしました。

 

743年、唐に渡った栄叡らは、「戒律」の僧として高名であった「鑑真」に渡日を要請、鑑真は承諾しました。「戒」は自らに誓う、「律」は集団の規則だそうです。

 

しかし渡航は、鑑真の渡日に反対した弟子が役人に密告したため、失敗に終わりました。

 

第2回目は、744年ですが、激しい暴風のために失敗。再度試みますが、密告により栄叡が逮捕され、第3回目も失敗。第4回目も同様に失敗。748年の第5回目は暴風により中国最南部の海南島まで流されました。

 

751年に鑑真は海南島を離れ、陸路北上し、揚州に戻ろうとしますが、その途上、日本の僧、栄叡が死亡、一方鑑真は気候や疲労のために両眼を失明します。753年、鑑真は遣唐大使の藤原清河らに渡日を約束しますが、役人に知られ、これで第6回目も失敗です。翌754年、7回目にして、鑑真はようやく日本に来ました。

 

日本での鑑真は、奈良、東大寺に住み、大仏殿に「戒壇」を築き、上皇から僧尼にいたるまで、400人に「授戒」しました。そして、759年に唐招提寺を建立、授戒のほかに、彫刻や薬草の知識を広め、貧民の支援にも尽力しました。(以上の情報はWikipediaによります。)

 

763年、76歳のとき、鑑真は自らの建てた唐招提寺で永眠しました。

 

普通、両眼を失ってもまだ、見知らぬ国に行こうという人はいないでしょう。鑑真がそれほどまで日本に行こうとした動機は何か。

 

それは日本に「戒律」を伝えるためであり、それが鑑真の「公」の「使命」でした。その「使命」のために壮絶な苦労に耐えました。鑑真は幸せだったと思います。

日野原重明

聖路加病院の日野原重明先生は、近代日本史上、もっとも偉大な人格者の1人であると言えるでしょうね。

 

内科医として、71年間、築地の聖路加国際病院で働き、著作は、共著も含めると340冊になります。40の役職をもち、受勲は文化勲章ほか多数、生涯現役を貫き、105歳で永眠しました。

 

日野原先生の人生は、まさに「公」、「人のため」、でした。

 

国の医療行政に欠陥があれば、政府と向き合い、改善に貢献しました。

 

1992年〜96年、聖路加病院の院長を勤めたときは、自身を「無給」としました。

 

90歳を過ぎても、緩和ケア病棟の末期癌の患者を見舞い、励まして回りました。患者さんたちは、日野原先生に励まされ、「生きよう」と思ったそうです。

 

1995年の「地下鉄サリン事件」のときは、聖路加病院の廊下や礼拝堂に640人の患者を収容し、治療にあたりました。災害に備え、日野原先生が廊下などに数千本の酸素パイプを設置しておいたのが、役に立ちました。先見の明が光ります。

 

人生は70歳から始まるという日野原先生のことばが忘れられません。

 

日野原先生は、子供たちと話すために全国の小学校を回りました。80歳を過ぎてから、テレビにも出演するようになりました。

 

音楽が好きで、作曲し、コンサート出演し、また音楽療法を研究しました。

 

ダイアリーは、5年先まで予定で埋まっていました。睡眠時間は4〜5時間です。

 

講演も数多くしましたが、著書としては、2001年に出版した「生き方上手」が120万部売れ、世間のブームになりました。その後も「生き方上手」シリーズが出版され、数多くの読者を得たようです。

 

日野原先生は、100歳をすぎてもまだ「公」に生きました。公益のため、何でもしました。2017年、105歳のとき、自宅で、延命治療はせず、静かに永眠しました。

小澤征爾

日本の音楽界の巨星といえば、やはり小澤征爾の名が出ますね。

 

小澤さんは、信念と自信をもって、24歳でフランスに渡りました。小澤さんを手放したくない恩師、斉藤秀雄の猛反対を押し切り、貨物船でマルセイユに上陸しました。そして1人スクーターでトコトコとパリを目指します。

 

小澤さんは日本で、桐朋学園の斉藤秀雄に厳しく鍛えられました。指揮棒を投げつけられるのは、日常茶飯事だったようです。そしてその修行により、実力と自信をつけました。

 

フランスに渡ったあとは、指揮者として、ブザンソン・コンクールを手始めに、いろいろなコンクールで優勝し、快進撃します。

 

何か強い力に背中を押され、突き進んだ感じです。

 

成功して、ボストン交響楽団の指揮者=音楽監督を30年間務めました。非常に評判が良かった証拠です。これだけ長期間、1人で同じオーケストラを指揮することは珍しいです。

 

有名な指揮者、バーンスタインカラヤンにも教えを受けました。

 

ボストン交響楽団の他に、大きな業績としては、サイトウ記念オーケストラを結成したことです。世界中の若手を集め、育てました。(以上、一部、ネットからの情報を参照しました)

 

小澤さんは非常に謙虚です。音楽を愛し、大きな夢をもって、謙虚に全力をつくします。その夢とはもちろん、最高の音楽を通じて、観衆と「感動」を分かち合うことです。

 

小澤さんをすぐ近くで見かけたことがあります。それは、鎌倉芸術館の近くのそばやでした。私たちのテーブルの近くの席に、1人で入店した小澤さんが座りました。店員さんに「一番シンプルなそばは何ですか」と聞き、かけそばを注文していました。そういう人です。

 

小澤さんは、常に分厚い楽譜を完全に暗記していました。大きな夢を持ち続け、85歳になっても、頑張っています。

 

何か、すごい力に背中を押されないと、ここまできません。

 

小澤さんは、幸せのキーワードをすべて実行しています。あとさきの心配をせずに、フランスに渡った時から、幸せが始まり、現在に至っています。