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スピーチ形式のエッセイ

鑑真和尚

「諦めなかった」人として、鑑真和尚 (がんじんおしょう) がいますね。

 

鑑真は中国の高僧で、日本に招かれていましたが、渡日に6回失敗します。しかし諦めず、7回目にようやく来日に成功します。11年かかりました。その間に両眼を失明します。

 

遣唐使の時代、8世紀の半ばですが、当時日本には、「授戒」できる高僧がいませんでした。授戒を受けず、自分で出家を宣言した僧は「私度僧」です。

 

そこで聖武天皇は、僧の栄叡らを中国に派遣し、「授戒僧」を連れてくることにしました。

 

743年、唐に渡った栄叡らは、「戒律」の僧として高名であった「鑑真」に渡日を要請、鑑真は承諾しました。「戒」は自らに誓う、「律」は集団の規則だそうです。

 

しかし渡航は、鑑真の渡日に反対した弟子が役人に密告したため、失敗に終わりました。

 

第2回目は、744年ですが、激しい暴風のために失敗。再度試みますが、密告により栄叡が逮捕され、第3回目も失敗。第4回目も同様に失敗。748年の第5回目は暴風により中国最南部の海南島まで流されました。

 

751年に鑑真は海南島を離れ、陸路北上し、揚州に戻ろうとしますが、その途上、日本の僧、栄叡が死亡、一方鑑真は気候や疲労のために両眼を失明します。753年、鑑真は遣唐大使の藤原清河らに渡日を約束しますが、役人に知られ、これで第6回目も失敗です。翌754年、7回目にして、鑑真はようやく日本に来ました。

 

日本での鑑真は、奈良、東大寺に住み、大仏殿に「戒壇」を築き、上皇から僧尼にいたるまで、400人に「授戒」しました。そして、759年に唐招提寺を建立、授戒のほかに、彫刻や薬草の知識を広め、貧民の支援にも尽力しました。(以上の情報はWikipediaによります。)

 

763年、76歳のとき、鑑真は自らの建てた唐招提寺で永眠しました。

 

普通、両眼を失ってもまだ、見知らぬ国に行こうという人はいないでしょう。鑑真がそれほどまで日本に行こうとした動機は何か。

 

それは日本に「戒律」を伝えるためであり、それが鑑真の「公」の「使命」でした。その「使命」のために壮絶な苦労に耐えました。鑑真は幸せだったと思います。