maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

父の生家

2020年7月27日、数年ぶりに、長野県の伊那市にある、父の生家を見てきました。

 

今は、僕の従姉妹の孫娘が住んでおり、台湾の人と結婚するようです。家の外観は、前よりきれいになったようですが、住人とは面識がないので、外から写真だけ撮って帰ってきました。代々の使用人である小作人の子孫が、同じ敷地に今も住んでいるようで、田畑を耕して生計を立てているのでしょう。

 

今回の大きな収穫は、蔵の白壁につけてある、我が一族の家紋「アゲハチョウ」をはっきり見たことです。この紋は、「平家」と同じですが、昔父が、我々は平家の落ち武者の子孫であると、冗談半分に言っていたのを覚えています。

 

この付近は、昔の面影をはっきり残しています。美しい田畑が広がり、その中に鎮守の森があります。道の両側には、昔の家がそのままの佇まいで残っています。変わったのは、茅葺き屋根が瓦に変わり、縁側にガラス戸がついたことでしょう。

 

家のすぐ近くに「長屋門」をもつ大きな家がありました。長屋門は、武家屋敷であれば、門番がそこに住み、農家であれば、養蚕場や倉庫として使われました。おそらく、豪農とか、庄屋の家だったと思います。

 

付近をクルマで走りましたが、どの家も立派で、廃屋のようなものはまったくありませんでした。兼業農家が多いのでしょうか、総じて豊かという印象を受けました。

 

僕が小学生の頃、毎年、この家の当主である父の兄から、美味しいリンゴを1箱送ってきました。木の箱の籾(もみ)の中にたくさんのリンゴが詰められていたのを覚えています。

 

僕が生まれたのは、戦争中だったので、母は兄と僕を連れてしばらくこの家に疎開したようですが、大変つらかったと、生前話していました。余計者として幼児を2人連れて転がり込んだのですから、容易に想像がつきます。

 

父の母は、女傑でした。村で初めて「女学校」に上がった人です。僕は、新婚旅行の途中にこの家に立ち寄り、祖母に挨拶しましたが、その見識と知性には驚かされました。いきなり、時事問題から話し始め、日本と世界の情勢を熟知しており、こちらはタジタジでした。

 

そのとき、ご馳走になった「鯉濃」(こいこく・鯉のみそ汁)の味を覚えています。