maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

岩崎弥太郎

岩崎彌太郎は現在の三菱グループのルーツ、三菱財閥創始者ですね。

 

彌太郎は、坂本龍馬と同じく、土佐藩の最下級武士で、赤貧の家に生まれました。

 

若い頃、「お上」に反抗し、投獄されましたが、このとき、「お上」に反抗するよりも、国の利益のために尽くしながら、自らの夢を成し遂げるという考えに至ったようです。

 

彌太郎は海運会社「三菱商会」を興し、1871年、36歳の時、業績を伸ばし、先発の「日本国郵便蒸気船会社」と競っていました。そこへ、政府の台湾出兵という事態になります。

 

当時、台湾に漂着した沖縄の漁民54名が、原住民に殺されました。日本政府は、賠償を求め、台湾の宗主国である清国と交渉しますが、らちが明かず、台湾に出兵することになりました。そのためには、兵員を輸送するために、多くの船が必要です。

 

政府は、「蒸気船会社」に兵の輸送を依頼しましたが、同社は、軍隊を輸送している間に、「三菱商会」に民間の客を取られることを恐れ、政府の要請を断ります。

 

そこで政府は彌太郎の「三菱商会」に依頼すると、彌太郎は快諾します。三菱の船だけでは足りないので、政府は10隻の外国船を購入し、彌太郎に運用を委託します。

 

台湾出兵が終わると、彌太郎の「三菱商会」は、自社船に加え、政府から委託された13隻の船を合わせ持ち、日本最大の海運会社になっていました。

 

このようにして彌太郎は、明治政府と結びつき、国内航路のみならず、橫浜―上海にも航路を開設しました。三菱に対して、アメリカやイギリスの船会社が挑戦してきましたが、激しい競争により、彌太郎が勝ちます。

 

彌太郎は癌を患い、50歳で他界しますが、死ぬ間際、「自分の夢は、10のうち、まだ1か2しか達成していない」と悔しがったそうです。「世界の海運王」さらに、「世界の実業王」になる夢をもっていたのだと思います。(以上はネット情報を参照しました)

 

彌太郎の信条である、「三菱の三綱領」が今も生きています。「所期奉公」は社会への貢献、「処事光明」はフェアプレイ、「立業貿易」は世界視野です。

 

志半ばでしたが、この大きな「公」の目的は、彌太郎亡きあと、達成されます。彌太郎は幸せだったと思います。