maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

ポール・ラッシュ博士

ポール・ラッシュ博士(1897〜1979)のことを、知らない方もいると思います。

 

ポール博士と関係があるのは、長野県・清里清泉寮立教大学、聖路加病院、YMCAなどです。このうちどれかは、聞いたことがあると思います。

 

ポール博士がアメリカから初めて来日したのは、1925年で、2年前の関東大震災で倒壊した、YMCAを再建するためでした。

 

YMCAの再建を終えた博士が帰国しようとすると、立教大学のマキム理事長から、同大学で教鞭をとるように頼まれます。ポール博士は、アメリカに婚約者を残してきたこともあり、断ったのですが、どうしてもというので、1年間だけ立教で教えることになりました。

 

そして結局、博士は日本に骨を埋めることになります。婚約者との結婚はあきらめました。

 

それまでにも夢はあった筈ですが、気がついたら、「日本」という夢に変わっていました。

 

長野県の清里には今も、博士が戦後に建てた「清泉寮」があります。ここで博士が行ったことは、指導者の育成、清里八ヶ岳地域の農業・酪農の近代化、保健・衛生の向上、キリスト教の布教などです。また、甲子園野球大会など、スポーツ振興にも力を入れました。

 

博士のモットーは、最善をつくし、しかも「一流になれ」というものです。私は2017年に、初めて清里の「ポール・ラッシュ記念館」を訪れたとき、その言葉を知りました。それ以来、自分には何も一流のものがないことが、気になっていました。

 

しかし今、私は、「やるべきこと」をしているので、壁に貼ってあるポール博士の顔写真が、微笑んでこちらを見ているように思えます。

 

博士の「日本愛」は筋金入りです。太平洋戦争が始まっても、「自分は日本に残る」と頑張りましたが、結局、1942年の交換船で米国に強制送還されました。しかし戦後すぐ軍人として再来日し、生涯を日本で過ごすことになります。

 

築地の聖路加病院再建のため、アメリカ で寄付を集めたとき、人々から理解を得るのに苦労しましたが、博士は頑張り、再建に成功しました。(以上、ネット情報を参照しました)

 

晩年は病も得ましたが、最期まで日本のために力を尽くし、そして「超一流」でした。幸せだったと思います。博士から学ぶことは多いです。