maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

名誉回復

外務省を追われた外交官、日本の英雄、杉原千畝(ちうね)が、ついに名誉を回復しました。

戦後、杉原に命を助けられたユダヤ人が、外務省に何度消息を尋ねても、「該当者なし」という返事だったそうです。これ以上の「不名誉」はありません。これでは、杉原千畝という人物は、外務省にいなかったという、「除籍」の扱いです。

 

「命のVISA」から59年、杉原の死から14年を経た、2000年のある日。外務省・外交資料館(麻布台)に杉原の顕彰碑が建てられ、除幕式で、ときの外務大臣河野洋平が以下のような「異例」の挨拶をしました。

 

「故杉原氏がご存命中にこのような式典ができておれば、更に良かったと思います。これまでに外務省とご遺族の間で、色々ご無礼があったこと、ご名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、心からお詫び申し上げたい。」そして、「故杉原氏は60年前、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。」と述べました。(斉藤勝久氏の資料を使わせて頂きました)

 

この話の中にある、「無礼」、「名誉」という言葉は、杉原氏を「除籍扱い」したことを指すとみて間違いないでしょう。杉原は、非常に優秀な外交官でした。

 

1941年、ナチスから追われ、リトアニアカウナスに逃げてきた多数のユダヤ人は、ここから、シベリア経由、日本を通過して、アメリカに逃げようとしました。そのためには、日本の「VISA」が必要です。カウナスの領事代理として、杉原は、ユダヤ人の命を救うため、外務省の反対を押し切り、日本通過を許可する「命のVISA」を発行し、6000人の命を救ったといわれます。日本の人道精神を世界に広めた英雄ではありませんか。

 

戦争が終わり、1947年、杉原は帰国しましたが、戻るはずの外務省に、「席はない」と言われ、退職します。外交官として活躍したいという大きな夢を打ち砕かれた杉原は、職を転々としながら、静かに人生を送りますが、戦争中のことや外務省とのことは、一切口を閉ざしました。これは、諜報活動をした者の心得です。内心は、外務省を追われたくやしさ、外交官をあきらめた失望、正しいことをしたという自負、これらが混ざり合った、複雑な精神状態だったと思います。

 

1985年、杉原は、日本人で唯1人、ユダヤ人の恩人として、「諸国民の正義の人」の称号を与えられました。そして翌年、86歳で永眠します。

 

日本が世界に誇る英雄です。