maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

Nさんありがとう

鎌倉の由比ヶ浜に、Nさんというアメリカ人の一家が住んでいました。

 

お父さんは、海軍の軍人で、長男のビル(Bill)は高校1年生。あと中学生の長女(Nancy)と小学生の次女(Patty)がいました。

 

お父さんは、横須賀の海軍基地に通勤していました。太っていて、「鬼軍曹」のような風貌でしたが、とても優しい人でした。毎週金曜日の夕方、日本人の学生や大人を家に招いてくれました。第1部は英会話のレッスン、第2部は軽食とダンスでした。英会話は3つのクラスに分かれ、先生は、ビルと長女、それに次女でした。

 

今考えると、Nさん一家は、毎週々々、日本人との友好を深めるために、「オープン・ハウス」してくれたのだと、感謝の念で一杯です。

 

僕は同年令のビルと仲良くなり、一緒に坂の下の海岸で波乗りをしたり、蓼科高原にキャンプに行ったりしました。また二人とも、プラモデルづくりが好きで、つくった模型を見せ合ったりしました。数学の問題を一緒に解いたこともあります。

 

ビルと僕と兄の3人で京都旅行に行ったことがあります。南禅寺の近くに父のビジネス・パートナーが住んでおり、その方にクルマを借りて、あちこち見物しました。1959年のことです。当時の京都の観光地は人も少なく、すごく良かったです。三十三間堂も、ガラガラでした。後に、社会人になり、外国人のお客様を案内したら、満員電車のように混んでいて、全然良くありませんでした。

 

Nさんのお宅に伺っているうちには、いろいろなことがありました。あるとき、お父さんが非常に厳しくビルを叱ったので、居合わせた日本人が、まあまあと、取りなそうとしたことがあります。するとお父さんは、「自分の息子は自分が教育する」と強く言って、ビルが泣くのもかまわず、叱っていました。日本と違うなと思いました。

 

こんなこともありました。お父さんが、ある日本人の女性を好きになり、

ダンスが終わると、いつも彼女を車で家に送っていました。Nさんの奥さんが、僕の前で、泣きながら、その女性に「あなたは私の夫を奪った」と食ってかかっていました。

 

でも、Nさん、ありがとうございました。ご家族が、橫浜の米軍ノース・ピアから帰国されたときは、母も連れて、船までお別れにいきました。今でも鮮明に覚えています。