maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

9イニングの人生〜その3

4th イニング続き

 

それからの1年間は、余りにも楽しく、いろいろ新しい経験があったので、たくさん書くことになります。

 

ロス・アンジェルス近くの寄宿学校で、僕たち日本人留学生120余名は、1週間合宿し、これから1年間、アメリカ人社会で生活する上で必要なことを学ぶという、オリエンテーションを受けました。

 

そして1週間後、僕はロスからニューヨークへ飛び、2泊して、AFS協会の本部やエンパイア・ステートビルに行きました。それから、グレイハウンド・バスで、いよいよホスト・ファミリーの待つボストンへ1人旅です。

 

バスに乗り込み、出発を待っていると、白人の男性が1人乗ってきましたが、空席がありません。すると、運転手が一番後ろのほうに座っていた、黒人の老婦人に降りるように言い、空いた席に先ほどの白人が座りました。その時、これが現実なのだと、アメリカ社会の舞台裏を見た感じがしました。

 

ボストンのバス・ターミナルでは、ホスト・ファーザーと、僕と同年齢のホスト・ブラザーが出迎えてくれました。そこから別荘に行くため、ボストンの家には寄らずに、クルマで南に40分ほど走り、避暑地の「ダックスベリー」という、海辺の小さな町に着きました。ホスト・マザーや、もう1人のホスト・ブラザー、そしてホスト・シスター3人が出迎えてくれました。子供5人の大家族です。

 

僕は初日から家族の一員として暖かく迎えられ、夕食では、マム(ホスト・マザー)が、お皿の肉の横に、ご飯をつけてくれました。パラパラの外米で、それでここはアメリカなのだと、実感しました。

 

それから、宿題のない、夢のような夏休みが始まりました。9月の新学期が始まるまで、海岸でのバーベキュー、海に続く川でロブスター獲り、サイクリング、水泳、ヨット・レース、バンガローの完成、メイン州への旅行など、ホスト・ブラザーたちも宿題がないので、毎日3人で思い切り遊びました。

 

とにかく当時は、アメリカの全盛期で、高速道路網が発達し、時速100kmで走行、サービス・エリアには、ハワード・ジョンソンというファミリー・レストランがあり、そこのアイスクリームの美味しさは、忘れられません。駐車場で車に鍵をかける人は誰もいませんでした。

 

日本の自動車メーカーは、1961年当時、アメリカの高速道路を時速100kmで、オーバー・ヒートせずに、連続運転できるクルマをつくるのに、四苦八苦していました。ところが今や、ハワイでは、日本車の方がアメリカ車より圧倒的に多いです。

                                                                     (2020.5.24-2)