グルー大使の闘い
ジョセフ・グルー駐日大使は、日本の良き理解者でした。
吉田 茂元首相は、「グルーは本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と、回想しています。
1944年12月12日、太平洋戦争も末期、アメリカ合衆国・国務次官候補に指名されたジョセフ・グルー(Joseph C. Grew)は、上院の聴聞会で、「天皇がいなければ、日本は崩壊する」と、天皇制の存続を主張し、天皇懲罰論に反対しました。アメリカ議会では、早くも戦後の日本政策を議論していたのです。
駐日アメリカ大使としては、エドウィン・ライシャワー(1961−66)やキャロライン・ケネディ(2009―13)が有名だと思いますが、グルーは1932年〜42年の10年間、長期にわたり駐日大使として、日米親善と戦争回避に尽力しました。
戦争回避のための最後のチャンス、近衛首相とフランクリン・ルーズベルト大統領の首脳会談計画が流れたあと、開戦となり、グルーは本国に送還されます。
帰国後、国務次官となったグルーは、多忙な国務長官に代わり、「3人委員会」の一員として、陸軍長官、海軍長官と共に、戦後政策を練りました。
知日家のグルーの存在は、日本にとり、非常に幸運でした。
グルーは、日本の良き理解者でした。陸軍とは疎遠でしたが、海軍とは良いつき合いがありました。終戦と同時に、国務次官を辞し、「国務長官顧問」として、全米を講演して回り、日本軍部を批判する一方、日本の「真実」を米国民にPRしました。
了
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