maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

ジョン万次郎を訪ねて

ジョン万次郎を訪ねて、高知県足摺岬まで行ってきました。

  万次郎の生家は、足摺岬のすぐ近く、中ノ浜にあり、6畳間に台所がついただけの、小さな家でした。

  そこから5キロほど離れた、土佐清水港には、立派な万次郎資料館があり、万次郎が書いたアルファベットの掛け軸や、アメリカで着ていた洋服などが展示してありました。2019年2月のことです。

  1841年、(天保12年)、ペリー提督が浦賀に来る12年前のこと、カツオ漁に出た、14歳の万次郎は、3日目に嵐に遭い、4人の漁師とともに、足摺岬から八丈島南方の「鳥島」まで流されます。

  万次郎たちは、無人島で、鳥や魚を食べながら、5ヶ月間生き延び、沖を通りかかったアメリカの捕鯨船に助けられます。他の4人の漁師は、ハワイで下船し、万次郎だけが捕鯨船の乗組員になり、母港である、アメリカ・マサチューセッツ州ニューベッドフォードまで行きます。そこで、万次郎を見込んだ、捕鯨船船長の養子になり、アメリカの学校を首席で卒業します。

 その後、帰国を決意した万次郎は、カリフォルニアの金鉱で、日本に帰る船賃を稼ぎ、ホノルルで待っていた仲間の漁師たちとともに琉球に帰ってきます。時は1851年(嘉永4年)、遭難してから10年が経っていました。

  鎖国を破った、万次郎たち罪人は、薩摩藩長崎奉行所で、長期間、取り調べを受け、赦されて故郷に帰ってきたのは、帰国から1年が経っていました。

  万次郎には、士分が与えられ、「中濱万次郎」となり、原書を翻訳する一方、アメリカで学んだ、英語や数学、航海術、測量術などを、人々に教えました。そして通訳として、勝海舟らと、咸臨丸に乗り込み、再訪米しました。

  日本で、学校教育を受けていなかった万次郎が、ここまでやったのは、大いなる尊敬に値すると思います。

f:id:maboroshispeech:20200410065204j:plain

                                      了