渋沢栄一
新しい1万円札の顔となる「渋沢栄一」が話題になっていますね。
渋沢といえば、明治時代に、500もの企業や組織をつくったことで有名です。
東京電力、東京ガス、東急電鉄、帝国ホテル、東京慈恵会、聖路加病院、理化学研究所、一橋大学、その他、製鉄会社、造船会社、製紙会社など、現在も続いているものがたくさんあります。
そして最近注目されているのが、渋沢の談話集「論語と算盤」です。
渋沢の持論は、社会の発展というものは、豊かになるだけでなく、道徳も伴わなければならない、ということです。
渋沢は、明治維新の前年、1867年に、28歳で、幕府の随員としてパリ万国博覧会に行きます。そこでフランスの銀行家から、資本主義のシステムを学び、日本に帰ってから、多くの株式会社を設立し、日本経済の巨星となります。
一方、渋沢は福祉事業にも人生を捧げます。
明治維新により、武士階級がなくなり、社会が大変動、江戸の人口は、100万人から50万人へ、半減しました。多くの庶民が失業し、貧民となりました。
渋沢は、東京府知事の大久保一翁から、貧民救済事業を要請されます。
都内の「東京養育院」では、100畳の部屋に100人の貧民が詰め込まれ、放置されていような状態でした。
渋沢は、民間から寄付を集め、「東京養育院」に診療設備をつくり、人々の健康を向上させ、また職業訓練所をつくり、多くの人の社会復帰を助けました。
ところが後年、東京府議会は財政難を理由に、「東京養育院」の閉鎖を決めます。
すでに91歳になっていた渋沢は病床にありましたが、陳情を受け、人生最後の仕事として、大蔵大臣に掛け合い、養育院存続への道を開きます。
翌1931年、渋沢は92歳で永眠します。(以上、TV番組を参照しました)
稼いだお金は人を助けるために使う、これが渋沢の哲学でした。
岩崎弥太郎
岩崎彌太郎は現在の三菱グループのルーツ、三菱財閥の創始者ですね。
彌太郎は、坂本龍馬と同じく、土佐藩の最下級武士で、赤貧の家に生まれました。
若い頃、「お上」に反抗し、投獄されましたが、このとき、「お上」に反抗するよりも、国の利益のために尽くしながら、自らの夢を成し遂げるという考えに至ったようです。
彌太郎は海運会社「三菱商会」を興し、1871年、36歳の時、業績を伸ばし、先発の「日本国郵便蒸気船会社」と競っていました。そこへ、政府の台湾出兵という事態になります。
当時、台湾に漂着した沖縄の漁民54名が、原住民に殺されました。日本政府は、賠償を求め、台湾の宗主国である清国と交渉しますが、らちが明かず、台湾に出兵することになりました。そのためには、兵員を輸送するために、多くの船が必要です。
政府は、「蒸気船会社」に兵の輸送を依頼しましたが、同社は、軍隊を輸送している間に、「三菱商会」に民間の客を取られることを恐れ、政府の要請を断ります。
そこで政府は彌太郎の「三菱商会」に依頼すると、彌太郎は快諾します。三菱の船だけでは足りないので、政府は10隻の外国船を購入し、彌太郎に運用を委託します。
台湾出兵が終わると、彌太郎の「三菱商会」は、自社船に加え、政府から委託された13隻の船を合わせ持ち、日本最大の海運会社になっていました。
このようにして彌太郎は、明治政府と結びつき、国内航路のみならず、橫浜―上海にも航路を開設しました。三菱に対して、アメリカやイギリスの船会社が挑戦してきましたが、激しい競争により、彌太郎が勝ちます。
彌太郎は癌を患い、50歳で他界しますが、死ぬ間際、「自分の夢は、10のうち、まだ1か2しか達成していない」と悔しがったそうです。「世界の海運王」さらに、「世界の実業王」になる夢をもっていたのだと思います。(以上はネット情報を参照しました)
彌太郎の信条である、「三菱の三綱領」が今も生きています。「所期奉公」は社会への貢献、「処事光明」はフェアプレイ、「立業貿易」は世界視野です。
志半ばでしたが、この大きな「公」の目的は、彌太郎亡きあと、達成されます。彌太郎は幸せだったと思います。
ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホといえば、「ひまわり」が有名ですね。
ゴッホは7枚の「ひまわり」を描き、その5枚目が、新宿の住友ビルにあります。
住友生命が、53億円で買ったそうです。
ゴッホが今生きていれば、億万長者ですね。しかし、生きている間に、絵は、1枚しか売れなかったそうです。
果たして、ゴッホは幸せだったのでしょうか。
ゴッホの人生を振り返ってみましょう。
37歳という若さで死んだのですね。
ゴッホは、オランダの牧師の家に生まれました。16歳の頃、画商「グービル商会」に勤めますが、7年後に解雇されます。その後、教師をしたり、聖職者を目指したりしますが、27歳の頃、画家になることを決意したようです。
ゴッホの画家としての活動は、亡くなるまでの10年間で、有名な作品は最後の2年間に描きました。
この10年間に、油絵860点、水彩画150点、素描1030点、など、2000点以上の作品を描きました。
しかし、売れたのは「赤い葡萄畑」1枚のみだったといわれます。
27歳のときに、ゴッホは、自分は「描く」人間である、と気がつき、その瞬間から、強い「力」に背中を押され、狂ったように描き続けました。売れませんでしたが、描きたいだけ描いたのでしょう。
存分に描いて、幸せだったと思います。
山中伸弥
「ノーベル生理・医学賞」を受賞した山中伸弥教授といえば、テレビにもよく出演するので、名前や顔は広く知られていると思います。
山中さんは、大きな夢に向かって走っているように見えます。
京都大学iPS細胞研究所の所長として、いわゆる「万能細胞」の研究をしています。
山中さんを見ていると、医者として「出世」するという「私欲」よりも、多くの患者さんの役にたちたい、世のためになりたいという「公」の目的の方が強いように感じます。
テレビや写真で見る限り、とても良い表情をしています。欲まみれ、カネまみれの顔はしていません。
山中さんのこれまでの人生は、多難です。
学生時代にスポーツで何度も骨折をしたのがきっかけで、神戸大学医学部を卒業後、整形外科医の道に入りました。しかし、不器用で、周囲から「ジャマナカ」と呼ばれ、外科医は自分に向いていないとあきらめ、研究者への道に転向します。
大阪市立大学に入り直し、薬理学教室で研究を始めます。ハードワークのすえ、1993年に博士号をとります。
そして、アメリカに留学、マウスを使って、iPS細胞、いわゆる「万能細胞」の研究に没頭します。しかし途中で、事情により、日本に帰ってきます。
ところが、日本の研究環境は、アメリカに較べると貧しく、たとえば、何十匹もいるマウスの世話を、アメリカと違い、山中さんが1人でしなければなりませんでした。
それやこれやで、山中さんは「うつ」になり、整形外科医の道に戻ることを決め、就職先も決まりかけたところへ、アメリカで「人間のiPS細胞」による実験に成功したとのニュースが入ります。これにより、山中さんの研究が飛躍的に進み、ノーベル賞の受賞となりました。
山中さんは、研究費を稼ぐために、マラソン大会に出たり、財団を設立して寄付を集めるのに大変ですが、iPS細胞が実用化すれば、難病の画期的な治療法となります。
大きな「公」の夢に向かって、山中さんは走っています。
大阿闍梨
酒井雄哉(さかい ゆうさい)( 1926〜2013)さんは、39歳で比叡山・延暦寺の僧になり、47歳で「千日回峰行」に挑み、2回達成しました。「満行」2回は千年の歴史で3人目です。
1回が7年の荒行で、これを2回、合計14年間にわたり、気が遠くなるような修行をしたわけです。2回目の回峰行を終えたときは、60歳になっていました。
テレビで、「大阿闍梨」(だいあじゃり)となった酒井さんを見ましたが、肌は透き通るように輝き、とても爽やかな感じでした。表情は柔和で、話し方は穏やか、自然体で生きているというような内容だったと思います。
千日回峰行という荒行のすさまじい内容を聞くと、小さなことに一喜一憂している自分が、本当に小さく思えます。
戦後、転職を重ねていた酒井さんが、この荒行に挑んだ動機はわかりません。
しかし確かなことは、何かの理由により、酒井さんは、この荒行に挑む「覚悟」を決めた、ということです。何か強い「力」が酒井さんの背中を押したのだと思います。そして、14年間、2千日にわたる荒行を達成し、「大阿闍梨」という位の僧になりました。僧というより、「聖人」です。
千日回峰行とは、簡単にいうと、7年間で千日、午前1時から、山や谷を40km歩き、260カ所の聖所で礼拝します。この荒行を途中でギブアップするときは、腰に差した短刀で「自害」です。病気でも許されません。足を踏み外して谷へ落ち、死ぬ危険もあります。
さらに厳しい行は、700日の回峰行を終えたときの「堂入り」です。9日間、堂の中にこもり、断食、不眠、です。堂から出るのは、仏に供える水を汲むときだけです。そして10万回、不動明王に念仏を唱えます。9日目には意識もうろうとして、死の一歩手前、という状態です。(以上、ネット情報を参照しました)
普通の人でも、「強い力」に背中を押されれば、これだけのことができるのです。これがキーワードです。転職を重ねながら、なんとなく比叡山に引きつけられた酒井さんを、不思議な力が押したのです。
酒井さんが千日回峰行を2回達成したということは、大変尊いことです。今、その「尊さ」を、酒井さんは大勢の人に分かち与えています。酒井さんは淡々と、「他にやることがなかったから」と言いますが、結果として、「人のため」に、偉業を成し遂げました。
大坂なおみ
この稿を執筆中の2020年9月12日、大坂なおみ選手が、全米オープン・テニス大会で優勝しました。
この大会にのぞみ、なおみ選手は7種類のマスクをつけると宣言しました。それぞれのマスクには、白い文字で、これまでに人種差別の犠牲になったと思われる、黒人の名前が書いてあります。人種差別に対する抗議です。
なおみは、ニューヨークで行われた今大会で、第1戦から準決勝までの6試合で、6種類のマスクをつけて入場し、6人の黒人犠牲者の名前が世界に放映されました。
そして、決勝では、7人目のマスクをつけ、目的を達成しました。うれしかったと思います。
私は、自身のブログに以下のように書きました。
「今回のなおみ選手は、これまでと顔つきが違う。その理由は、人種差別に抗議するという、『公』の目的のために闘っている、という点である。決勝では、その『公』の目的意識が強ければ勝つ、もし、『優勝』という『私欲』がちらついたら、勝つのは容易ではない」
決勝は、非常に興味深い試合でした。これまで破竹の勢いで勝ち進んできた、世界ランク9位のなおみが、世界ランク27位のアザレンカ選手に、第1セットを1−6で落とします。
第2セットが始まるまでの間、なおみはベンチでタオルを頭からかぶります。何かを考えています。技術的なことであれば、ほおかむりをしないでしょう。何かを考えています。
そして、第2セットが始まり、6−3でなおみが取ります。さらに、第3セットも6−3でなおみが取り、優勝です。同大会の決勝では、珍しい逆転勝利です。
第1セットを落としたなおみは、ほおかむりをしながら、自分が亡き黒人たちのために闘っていることを思い出したのです。立ち上がったなおみは「無私」でした。そして、強烈なショットを放ち、勝ったのです。不思議な「強い力」に背中を押されて。
試合後のインタビューで、なおみは「この大会がきっかけで、世の皆さんが人種差別のことを話し合ってくれており、それがうれしい」と語りました。
スポーツ解説者たちは、なおみが精神的に成長したとか、新任のコーチが良い、などと言いますが、本質は、なおみが個人的な利益ではなく、「公」のために闘ったということです。
マザー・テレサ
マザー・テレサは「聖人」としてではなく、「人」として親しみを感じます。彼女は、ギリシャの北、「北マケドニア」出身で、カトリックの信者でした。
彼女は幼少の頃から、いつかインドに行き、修道女になるという希望をもっていました。
21歳のとき、インドのダージリンにある修道院に入り、「テレサ」という修道名を授かります。そして36歳のとき、いよいよインドの貧しい人々を救うことを決意します。
2年後、38歳のとき、ローマ教皇の許可を得て、修道院の外に住み始めます。まず、カルカッタのスラム街の路上で、ホームレスの子どもたちに無料で勉強を教え始めます。
40歳のとき、「神の愛の修道者会」をつくります。大勢の修道女たちが、テレサのもとに集まり、テレサは、「マザー」と呼ばれるようになります。
テレサは廃墟となったヒンズー教の寺院を借り、ホスピス「死を待つ人々の家」を始めます。
路上で、体の半分が土の中に埋まり、死を待つばかりの人を助け出し、施設に運び、全身を洗い、息を引きとるまでの数日間、清潔なベッドに寝かせ、優しく看護するのです。
彼女が助けようとしたのは、カースト制度の最下級に属する人々です。上の階級の人々の排泄物を、素手でさわらなければならない人々です。身寄りもなく、世の中から必要とされない人々は、最後の数日間、人間として尊厳ある扱いを受け、感謝と幸せな気持ちで永眠することができました。
マザー・テレサはお金持ちを訪ねて回り、寄付を集め、建物を建て、ベッドを置き、食糧を用意しました。苦労は大変なものだったと思います。(以上、ネット情報を参照しました)
彼女になぜこのような大きな奉仕ができたのでしょうか。
それは、彼女の「目的」と「夢」が、「公」だったからです。「これがあなたの仕事です」と強い力に背中を押され、困難な仕事に次々と挑戦、楽しみといえば、内緒でチョコレートを食べるぐらいでした。服装は、シンプルな、白地に青い線の尼僧衣に、サンダルでした。
テレサはホスピスや児童養護施設を次々とつくり、彼女の目的と夢は達成されていきました。
1997年、87歳で彼女は静かに息を引きとります。幸せな人生だったと思います。