maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

俳句の会

ちょっとしたきっかけで、この夏、2020年7月から、

学生時代の仲間8人で、俳句の会をスタートしました。

 

きっかけというのは、大学時代に同じゼミナール(研究会)に所属した

同期による記念誌(文集)を7月に発行したことです。

 

文集を読むと、K君が俳句の達人であることがわかりました。

そこで僕は、俳句の会をつくり、K君にプレイング・コーチをお願い

したらどうかと、思い立ちました。

 

K君は快く引き受けてくれ、仲間に呼びかけたところ、

8人が集まりました。

 

俳句の会は、通常、定期的に集まり、「句会」をするそうですが、

コロナ下であり、メールで投句する、「メール句会」としました。

 

第1回のメール句会は7月、第2回が8月に行われました。

7人がK君に3句ずつメールで投句し、

K君が、自作も含め、8人分の句を1表にまとめ、

全員にメールしてくれます。

 

全員がそれを見て、良いと思う句に「印」をつけ、K君にメールしますと、

K君が取りまとめて、メールを返してくれます。

 

ドキドキしながら、自分の句にどれだけ「印」がついているか、

見るわけです。

 

ほとんどが初心者なので、季語を間違えたり、いろいろです。

 

俳句には、難しい漢字を使うことが多いので、螳螂(かまきり)、蟋蟀(こおろぎ)、

木下闇(こしたやみ)心太(ところてん)などは、最初、辞書が必要です。

 

初心者が難しい俳句を詠もうとすると、読む人に意味がわからない、

変な句ができがちです。最初は、やさしい句を詠むほうが無難だと思います。

 

僕の代表的な句:

7月  梅雨空に晴れ間のごとき新棋聖  (棋聖戦に勝った藤井聡太さん)

8月  雄大マサチューセッツ紅葉す  (8月は秋、ボストンの思い出)

 

ところで、数日前に富士・本栖湖に行きました。写真からのスケッチです。

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本栖湖

以上

 

安倍さん

7年8ヶ月、お疲れさまでした。

安部首相がもうすぐ交代します。

あとを継ぐ人は、明日、2020年9月14日(月)に決まりますが、

歴史的な交代です。

 

安倍さんに非常に批判的な朝日新聞による世論調査で、

安倍さんの仕事を評価する人が「71」パーセントいました。

これはすごいことで、この数字をもって、

日本のほとんどの人が「安倍さんよくやった」と

思っていることがわかります。

時事通信の田﨑史郎さんも「朝日でその数字?」と驚いていました。

 

歴代の首相をみると、辞める前は、支持率が20〜30パーセント

というのが普通で、森喜朗さんのときは、「8」パーセントでした。

 

僕は、安倍さんのえらいところは、大きく2つあって、

1つ目は日本を普通に住みやすい国に近づけたこと、

2つ目は、世界に、日本が立派な国であることを知らせた、

ということだと思います。

 

大雑把にいえば、民主党政権のときは、1ドル88円くらいで、

株価は8千円くらいだったのが、安倍さんになり、

1ドル105円くらい、株は2万円以上になりました。

失業率は減り、保育所待機児童も減りました。

物価は高くなく、安定しています。

新聞は、「デフレ」と批判しますが、

僕はスーパーに行って、百円で塩鮭、漬け物、卵、パン、

オレンジなどが買えると、うれしい気持ちです。

たとえば、ハワイでは、かつて日本の半値だった野菜も、

今や、日本の2倍以上します。

 

また、安倍さんの主導で、日本は世界の諸国と多角的、また個別的な

貿易協定を結びました。これは、世界的に高く評価されています。

 

今の日本は、「選択」の幅が大きくて、住みやすいです。

これも、安倍さんが物価を安定させてくれたお陰です。

たとえば、銀座で千円するものが、下町では百円で買えます。

これって素敵ですね。

そして、僕は。もちろんその「百円」で買いますが、

「貧乏」という感じはせず、「豊か」に暮らしている感じです。

ヨーロッパの都市では、ハンバーガー・ランチが2千円、

日本では、1千円か、それ以下です。

一方、企業は、コロナの前までは、それで普通に利益をあげて

いました。

 

1ドル105円で、しかも百円で買えるものがたくさんあり、

街は清潔で、サービスは良く、落とした財布は返ってくる、というので、

年間4千万人の外国人が日本に観光にきました。

だから、安倍さんのお陰で日本経済はうまくいったのです。

 

一方、諸外国のリーダーからは、安倍さんに惜しみない賛辞と

尊敬の言葉が寄せられています。(韓国の変な大統領からは、なし)

日本の歴代最高の首相であるとの賛辞です。

日本にいるとわかりませんが、外国では、安倍さんは

世界のリーダーとして、あのじゃじゃ馬のトランプ米国大統領を

うまく「制御」できる唯一の人物として、尊敬されています。

中国の脅威に対抗して、「インド太平洋の平和と安全」という

スローガンをつくり出し、アメリカ、オーストラリア、インドなどから

賛同を得たのは、安倍さんです。

中国の脅しをおそれず、日本は「自由主義陣営」の国ですと

明言しました。

それでいて、中国もロシアも、日本を非難、攻撃することは

ありません。これは皆、安倍さんの力です。

 

僕はよく、安倍さんと小泉純一郎元首相を比較します。

小泉さんが偉かったのは、1つ目、変な人を大臣にしなかったことで、

この点、安倍さんは大分見劣りします。2つ目、北朝鮮から

8人ほどの拉致被害者を連れ戻した。この点も安倍さんはだめでした。

 

しかし、総合的に、また国際的にみると、安倍さんのほうが

だいぶ上です。

 

日本の首相の毎日というものは、何十人という人と会い、

国会で缶詰となり、会合で演説し、会食し、外国を飛び回る、

というもので、まさに激務です。

僕は商社マン時代、2泊でニューヨークに出張しましたが、

死ぬほど疲れました。

 

首相はこれを年中しているのです。そんな多忙なリーダーは

外国にはいません。国会にも少ししか出ません。

 

さて、安倍さんは、持病の潰瘍性大腸炎のほかに、もしかしたら、

本当の理由は、「膵臓ガン」かもしれません。父親の安倍晋太郎さんは、

この病で亡くなりました。日本農業新聞膵臓ガンの可能性を

報道しましたが、ほかの新聞は沈黙しています。

 

安倍さんに再三迷惑をかけた昭恵夫人は、「ゴーイングマイ・ウェイ」で

家庭内別居という報道もあります。「制御不能」ですから、無理もないです。

 

安倍さんが癌でないことを祈るばかりです。

 

ともかく、7年8ヶ月、日本の、世界のリーダーとして、

お疲れさまでした。

 

 

 

 

大坂なおみ決勝へ

大坂なおみ選手が全米オープン・テニスの決勝戦進出です。

この間まで、出ると負けで、泣きべそをかき、

コーチに当たっていた、

あの、なおみちゃんが、全米オープン・テニスの決勝進出です!

 

今回は、どうしたのでしょう。(失礼)

 

僕は今、本を書いているのですが、なおみさんは、まさに、

全米オープンで、その本の結論を実践しています。

 

彼女は今大会、黒いキャップをかぶって入退場しています。

そのキャップには、白い文字で、これまで白人の警官に

殺された黒人の名前が書いてあります。

 

彼女は7つのキャップを用意し、そのキャップに書いてある

7人の黒人の名前を、すべて観客に見せる、と宣言しました。

 

そして今日までに、すでに6人の名前を見せました。

観客と、そしてテレビで全世界の人にです。

これまで、第1戦、第2戦、第3戦、第4戦、

準々決勝、準決勝、の6試合に勝ってきました。

 

あとは、決勝戦で7つ目のキャップをかぶって入場すれば、

7人全員の名前を世界に見せたことになります。

 

今大会のなおみは、これまでと顔が違います。

眼は、しっかりと前方何かを見ています。

自信と決意にあふれています。

彼女がこれだけの強敵を相手に勝ち続けるには、

立派な理由があります。

 

今の彼女には、「公」の「目的」と「夢」があるからです。

それは、キャップにある名前を全世界に見せ、

人種差別に抗議することです。

黒人のために、闘うのです。

これが「公」の目的であり、夢です。

 

もし、「優勝したい」という個人的な目的と夢だけであれば、

ここまで完璧な強さを示すことができたかどうか。

容易ではなかったと思います。

 

「公」の目的があったので、何か特別な強い「力」に

背中を押されて、勝ち進んできたのです。

 

勝戦で、「黒人のために闘う」という意識が強ければ、

勝つチャンスは大きいと思いますが、

個人的な、「優勝」という2文字がちらついてくると、

勝つチャンスはその分減るでしょう。

 

「優勝」を意識せずに、「黒人のために」闘う、

という気持ちで試合して欲しいものです。

 

日本を代表をするなおみちゃんを応援しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボブ・ホープ

高校時代の同級生M君は、数年前に永眠しました。

 M君は、ものすごく頭が良く、東大に現役で「悠々と」合格しました。「ガリ勉タイプ」ではなく、いつも遊ぶ話をしていました。明るい性格で、よく冗談を言い、まさに「良く学び、良く遊ぶ」の典型でした。

 フルブライト奨学生としてアメリカに行ったのも、「余裕」だったと思います。

 彼は当時、洋画(映画)に夢中で、あらゆる洋画の主演、監督などを知っていました。そういえば、風貌がボブ・ホープ(Bob Hope)に似ていました。特に顔は、そっくりでした。ボブ・ホープは、1940年代から活躍したアメリカの映画俳優です。

 僕とM君、そしてN君、の同級生3人は仲が良く、大学生になってからは、一緒に飲んだりしましたが、M君が、一番豪快に飲みました。

 M君は、大学院を卒業すると、三菱重工に就職し、LNG船の設計をしていましたが、数年で会社を辞め、自分でビジネスを始めました。デジタルに詳しく、というより、達人で、パソコンを使いこなしていました。彼のように、特別に能力があり、創造的にいろいろなことをしたい者には、大きな組織の歯車は合わなかったのでしょう。特に、三菱重工は、巨大な組織で、形式にうるさく、官僚的だったに違いないと想像します。テレビ・ドラマ「下町ロケット」に登場する「帝国重工」のモデル会社です。

 

麻布十番のオフィスに彼を訪ねたことがありますが、ヨーロッパの会社と、

何か軍事システムの導入について交渉していると言っていました。巨額の大型商談だったようですが、後日聞いたところでは、うまく行かなかったそうです。

 彼が「咽の癌」で亡くなる数ヶ月前だったと思いますが、彼やN君をはじめ、高校の同級生数名で、中華料理を食べながら、歓談しました。そういえば、その食事会の日程を、1度決めた後に彼が、「検査がある」というので、変更した覚えがあります。そのときには、癌だとわかっていたのでしょう。

 彼は、病床で洗礼を受けたので、葬儀は奥さんも通う世田谷のカトリック教会で営まれました。1周忌の礼拝にも行きましたが、友人で来ていたのは僕だけだったと思います。

 M君、いずれあちらで、N君と3人で飲もう!約束だよ! 

9イニングの人生〜その16

オーストラリア駐在(2)

シドニーでの1年間で特記すべきは、娘が生まれたことでした。

キリスト教系の病院で生まれたのですが、医療体制は素晴らしかったです。

ホーム・ドクター制度が確立していて、分娩は大病院、生まれたあとは、

母子専用の「ハウス」で、母子は天国のような2週間を過ごします。

母親は、授乳のときだけ、乳児と一緒で、あとは、シスターである

ナースが別室で24時間、乳児の世話をします。

母親は、「ハウス」でゆっくり、のんびり、2週間を過ごし、

元気を回復します。

 

あっという間に1年が過ぎ、今度は、メルボルンへ転勤することになりました。

シドニーでの大きな仕事が終わったためです。

 

シドニーからメルボルンまで、2千kmくらいあったでしょうか、

途中で1泊しながら、妻と娘を乗せ、クルマで引っ越しました。

メルボルンでは、やっと見つけた貸し家に落ち着きましたが、

オーナーが、2ヶ月もしないうちに、1年の旅行予定を切り上げて、

帰宅するので、引っ越して欲しいと言われ、また引っ越しました。

そのオーナー夫妻は、1年間、キャンピングカーでオーストラリア

全土を巡りながら、エンジョイする予定でしたが、2ヶ月も

しないうちに「ホームシック」にかかってしまったそうです。

海外転勤も含めると、人生数え切れないほど、引っ越しました。

 

 メルボルンでは、変な支店長につかまり、毎日説教されました。

その人は、そういうクセがあるようで、私のあとに、別の人が

新たに赴任してきたら、今度はその人を毎日説教していました。

 

メルボルンシドニーとは非常に違う町でした。

大変保守的な雰囲気でした。

気候的にも、シドニーよりも南で、南極に近いため、

9月から3月まで、ストーブを使いました。

 

ゴルフは毎週のようにやり、かなり上達しました。

我々がよく行ったパブリック・コースでは、千円くらいでプレーできました。

朝、コースに着いたら、駐車場で靴を履き替え、家から着てきた

ゴルフ・ウェアで、クラブ・ハウスに行きます。

クラブ・ハウスで料金を払い、そのままスタートです。

すいているので、到着順にスタートです。

食堂も、更衣室も、浴場もありません。

ハーフが終わると、そこは、クラブ・ハウスから遠いところで、

キッチン・カーでミート・パイを買い、食べ終わったら

すぐインコースのスタートです。

こんな調子で、昼頃には18ホールのプレーを終わります。

そのあと、皆でバーベキューをすることもありました。

 

オーストラリア人は、5時に仕事を終わります。

家に帰り、家の修理をしたり、バーベキューをしたり、

暗くなるまで自由な時間を過ごします。

週末には、郊外に出かけ、3年くらいかけて、別荘を自分で

建てる人もいます。

豊かで、自由な時間がたくさんあります。

家は日本よりずっと広いです。

 

すべてが日本と反対で、素晴らしいのです。ところが、

永住したはずの日本人が10年もすると日本に帰ってきてしまうことがあります。

私には、理由がよくわかります。

環境が良すぎて、単調すぎ、退屈してしまうのです。

日本のような「味わい」がないのです。

夏祭りのお囃子の音を遠くに聞きながら、スイカを食べる、

というような「風情」がないのです。

魚、肉、野菜サラダ、バーベキュー、だけでは飽きてしまいます。

やはり、「そうめん」や「さんま」も食べたいのです。

 

もちろん、オーストラリアに永住している日本人もたくさんいますが。

私は日本に住みたいです。

 

 

 

 

 

中村のおじさん

中村哲さんは、アフガニスタンで「中村のおじさん」と呼ばれていました。

中村おじさんは、九州大学を卒業した医師です。

専門は、脳神経内科でした。

1980年代には、パキスタンでライ患者の治療にあたりまいた。

2000年頃から、アフガニスタンで、医療と同時に、

荒れ地に井戸を掘り、農地に変える事業に専念しました。

中村おじさんは、アフガニスタンでは、神様のように尊敬されていました。

残念ながら、昨年2019年12月、クルマで移動中に、

武装勢力により射殺されました。

 

生前、中村さんは、「自分は憲法九条に守られている」と

言っていました。

平和主義の人間を攻撃するものはいない、自分はタリバン

襲われることもない、と言っていたそうです。

ところが、残念ながら、タリバンではない武装勢力に襲われ、殺されました。

どうも、中村さんの存在が邪魔な連中がいたようです。

中村さんにより、荒れ地が、農地になり、地価が上がりました。

ところがそれを喜ばない勢力がありました。

結局、地主たちの間で争いが起きました。

その犠牲になったのが中村さんです。

 

中村さんの葬儀では、安倍首相をはじめ、各大臣、

各政党の党首が追悼の辞を述べましたが、

いずれも「残念」と言う以外に、言葉がありません。

 

日本には、憲法九条を守るべきだとする人々と、

私のように、他人が自分の家に無断で侵入してきたら、

実力で追い出す、という人々がいます。

私は、「尖閣諸島」が中国に占領され、「残念」です、

と引き下がるわけにはいきません。

中国が占領しにきたら、海と空から反撃し、撃退し、

絶対に尖閣諸島を守るべきだと思います。

 

9イニングの人生〜その15

オーストラリア駐在(1)

入社6年目で、オーストラリアに転勤になりました。

シドニーです。

シドニーの町のあまりの美しさに感動しました。

シドニー湾、ハーバー・ブリッジ、オペラ・ハウス、この景色は、世界有数の美しさだと思います。

郊外の町も、緑の木と煉瓦の家が良くマッチして、美しかったです。

毎週のようにゴルフをしました。

駐在員は、15名ほどいて、各本部から来ていました。

私は、鉄鋼本部です。

支店長は機械本部の人、副支店長は鉄鋼本部の人で、私の上司です。

会社は、市の中心部にある、オーストラリア・スクエアという丸いビルで、

37階くらいあったと思います。

「英国式」が残っていました。

午前10時頃と、午後3時頃が「ティー・ブレイク」です。

大きなカートを引いた老婦人が、200名くらいの会社全員の

席を回り、紅茶かコーヒーを入れてくれました。

この婦人は、全員の好みを暗記していました。

コーヒーか紅茶か、ミルクや砂糖はいれるか、

たくさんか少しか、など、全部を覚えていて、

そのとおりにしてくれました。

それから、金曜日の午後は、もう休日気分で、

取引先に電話しても、「もう仕事の話しは、来週にしよう」

という雰囲気でした。

町には、「パブ」(大小のビアホール)がたくさんあり、

金曜日の午後は昼間から満員でした。

競馬がすごく盛んで、町のたばこ屋さんで馬券を売っていました。

賭け事が盛んで、競馬場にいくと、「馬券の予想屋」が公認でした。

バーベキューもしました。

有給休暇は、年に4週間ありました。

オーストラリアの人は幸せだと思いました。