maboroshispeechのブログ

スピーチ形式のエッセイ

9イニングの人生〜その14

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長屋門。長野県・伊那。


今回は、三田祭と就職です。

さて、再び、私の人生を野球にたとえ、9イニング(9回)のシリーズです。小学校を「人生〜その1」、野球の1イニング(1回)としてスタートし、6月28日には、「人生〜その13」、6イニング(6回)で、大学3年のゼミ・夏合宿まできました。野球でいえば、6イニングは中盤戦の終わりです。

野尻湖でのゼミ・夏合宿も終わり、次は11月の三田祭です。この文化祭に、3年生の我々が研究発表をします。教室のパネルに研究成果を張り出し、いろいろな人がそれを見にきます。

夏休みが終わり、9月から研究を始めたのですが、だんだん時間がなくなり、10月の下旬から1週間、大学近くのお寺で合宿をしました。

日本の経済成長についての研究ですが、世界各国のGNP(国民総生産額)との比較をすることになりました。

ここで、困った問題がでました。国連による統計は、世界のGNP額が、それぞれの国の通貨で表示され、米ドル表示の統計がないのです!これには、困りました。仕方なく、当時の大蔵省の建物の中にある経済企画庁の事務所で、手回しの計算機を借りて、連日、米ドルへの換算をしました。

その資料を「お寺」に持ち帰り、徹夜で作業をしました。

ゼミは25名ほどでしたが、私を含む4〜5名は、1週間、完全な徹夜をしました。信じられないことでしたが、三田祭に間に合わせる、ということで心身が異常に興奮し、徹夜ができたのだと思います。

三田祭当日の朝、ギリギリでパネル表示が完成し、お寺に帰った私たちは、36時間ぶっ通しでお寺の本堂に寝ました。

 

就職は、うまくいきました。

成績が良かったのと、父のコネもあったので、三菱商事1社だけを受けました。ゼミの先生も、推薦状を書いてくれて、4年生の夏には、内定がでていたと思います。

こうして、4年間の大学生活では、後半2年間は勉強し、クラブ活動やゼミの仲間と大いに遊び、就職も無事できたというこどて、高得点です。

 

 

 

 

 

 

日本人のお手本

今、日本人のお手本といえば、聖路加国際病院で有名な日野原重明先生だと思います。

 3年前の2017年、105歳で永眠されました。

ご自身が内科医でしたが、延命治療は望まず、自宅で静かに息を引き取られました。

 90歳を過ぎても、ダイアリーは5年先まで、予定で埋まっていたそうです。

毎日、過密スケジュールをこなしておられました。

 若いお医者さんたちには、とにかく、医療でもっとも大切なのは、患者さんと心を通わせることだと教え、自らも毎日入院患者さんのベッドを回り、話しを聞き、励ましたそうです。日野原先生のおかげで、末期癌の患者さんが、生きていようと思ったそうです。

 40もの役職につき、生涯で、共著も会わせれば340冊もの著書を出版されました。

私も、たった1冊の薄い本を出版しましたが、それでも大変でした。

 私たちがよく知っているのは、2001年に出版された「生き方上手」でしょう。

120万部の大ヒットで、世のブームとなりました。

 人生は70歳から、というのが持論で、60歳はまだ子供、と言われました。

 日野原先生は、患者さんのために尽くすという夢をもち、見事に実行されました。その夢があったために、多忙で大変な人生も、「苦」ではなく、「楽」として生きられたのだと思います。先生の優しい表情と言葉が、なつかしく思い出されます。

 睡眠時間は4時間程度で、階段は、健康のため、10階でも歩いて上りました。

 医療の世界で、それまでは、心臓病や糖尿病などを、「成人病」と呼んでいましたが、日野原先生はこれを「習慣病」と呼び直すことにし、政府があとを追い、「生活習慣病」と名づけました。

 1995年の地下鉄サリン事件のときは、日野原先生が陣頭指揮をとり、640人もの患者さんを収容し、治療にあたりました。その数年前に、先生が、災害に備え、病院の廊下などに、数千本の酸素パイプを設備しておいたのが良かったのです。反対する人も多かったそうですが、先生の「見識」と「決断」が見事でした。

 あらゆる点で、日野原先生は日本人のお手本です。

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修学院離宮

 

ヨーロッパ vs 中共

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桂離宮


ヨーロッパが中国に対し、怒りました。

 2020年9月1日に、台湾を訪問中のチェコ上院議長が、台湾の議会で演説をしました。

 その演説は、チェコは台湾と友好関係を続けたい、しかし、それを邪魔する国がある、という痛烈な中共批判でした。

 チェコの議長は演説の中で、「法」というものは、民主主義と自由を守るべきものであり、それを制限すべきものではない、と言いました。明らかに、香港人の自由と民主を取り上げた中共の「国家安全法」を批判しています。

 そして最後に議長は、私は「台湾市民」であると述べ、台湾の全議員のスタンディング・

オベイションによる拍手を受けました。これは、1963年に、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が米ソ冷戦下のベルリンにおける演説で、私は「ベルリン市民」であると言ったことを想起させるものです。

 これに対し、ヨーロッパを歴訪中であった、中共王毅外相は、チェコは重い代償を支払うことになると恫喝しました。

 これに対し、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ、スロバキアなどの外相は、中共の恫喝は受け入れられない、と一斉に反発を表明しました。

 ヨーロッパ諸国は、「人権」に対して非常に敏感です。

ヨーロッパには、ナチスソ連から人権侵害された、苦い歴史があります。

自由、民主、人権だけは、絶対に譲れません。

 ここ数年、ヨーロッパ諸国は、中共からの経済的な利益を享受してきました。

 しかし今、それが中国共産党による大きな「罠」であったことに気づいたのです。

 利に聡い中国人ですから、「世界」を敵に回すことはしないでしょう。中共の終身リーダーとなり、世界制覇を急いだ習近平は、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを敵に回すことになりました。中共の指導者たちは、それを許しません。あとは、習近平が失脚するだけです。

 中共の片棒をかつぐ、韓国の共産主義者文在寅大統領も、同じ運命です。

世界を敵にする

中共と韓国が世界を敵に回したようです。

 

最大の理由は、「人権」問題です。

 

中共、すなわち、中国共産党共産党中国は、ウィグル自治区に住むウィグル人に対し、重大な人権侵害をしています。百万人単位のウィグル人男性を収容所に送り、「教化」して、中国人にしようとしています。ウィグル人としての「アイデンティティー」を消そうとしています。

 

さらに、つい最近、9月1日から、内モンゴル自治区に住むモンゴル人に対し、突然、モンゴル語の使用を禁止しました。学校では、モンゴル語を禁止し、教科書も会話もすべて中国語を強制です。これに対し、モンゴル人は、子供を学校に行かせない、という対抗手段に出ていますが、これから中共との大きなトラブルが心配されます。

 

ウィグル人、内モンゴル人、香港人は、人権を失い、中共の「奴隷」になりつつあります。

 

これに対し、世界が「おかしい」「ゆるせない」と言い出しています。

 

文在寅大統領の韓国も、人権侵害で、世界の非難を浴びています。

 

最近、韓国は、「脱北者」や脱北者を支援する「団体」を弾圧しています。先日も、脱北してきた男性2人を、そのまま、北朝鮮に強制送還しました。

 

こういうことに対し、世界の人権団体が、「おかしい」と言い始めています。

 

それから、3年前の2017年に、ニュージーランドに駐在する韓国の男性外交官が、現地の韓国大使館に勤務するニュージーランド人の男性職員にセクハラをしました。3度にわたるセクハラです。この韓国人は告訴されましたが、韓国政府は、この男性外交官を帰国させ、謝罪もしていません。

 

つい最近、韓国の外務大臣が、「外交の責任者として、韓国の大統領には謝罪するが、ニュージーランドには謝罪しない」と言い放ったので、当然、ニュージーランド政府は、不満であり、この韓国外交官はニュージーランドで裁判を受けるべきであると主張しています。

 

中共は、その「傲慢」さで、また韓国は、「謝罪」しない、という態度で、自由や人権を重視する世界の非難を浴びています。悪い「本性」が暴かれはじめています。

野尻湖合宿

大学3年生のゼミの夏季合宿は、長野県の野尻湖でした。

 午前中は、グループに別れ、前の晩に徹夜で準備した研究発表や、ケース・スタディの結果発表。午後は外に出て、バレーボールのブループ対抗試合など、スポーツをしました。

 ケース・スタディは、ハーバードのビジネス・スクールのように、先生がケース(実例)を提示し、その事態にいかに対応するのがベストか、各グループで経営方針を練り、発表しました。たしか、アメリカの自動車産業に関するケースが提示され、僕たちのグループは「Ford」のネーム・プレートをつくり、胸につけて発表したのを覚えています。

 また、ホテルの桟橋から湖に飛び込んで遊びました。湖には島があり、船で行ってそこの神社の境内で、宝探しをしました。

 夜の部では、仮装寸劇大会がありました。写真を見ると、歌舞伎役者、アラビアの王様、等々、多彩な顔ぶれです。僕は、チャイナ・ドレスを着ています。「女形」には、先生の奥さんが顔に「どおらん」を塗ってくれました。

 いろいろな「班」に分かれ、役割分担をしました。写真・食管・学術・教養・運搬・新聞・風紀・留学生・保安などがありました。僕は、何班だったか、覚えていません。新聞班の人たちは大変でした。夕飯が終わり、勉強が終わり、11時頃から、その日の出来事を記事にし、明け方ガリ版で刷り、朝食のとき配るので、K君など、徹夜の連続だったようです。

 僕は、アメリカで買ってきたバーミューダ・ショーツをはいていたら、「西洋乞食」というあだ名をもらいました。当時は、すごくやせていて、お尻も出ていなかったので、ショーツ姿もサマにならなかったようです。

 合宿は、4年生も参加しますが、3年生が中心です。当時、4年生は、春から就職活動が始まり、たしか、夏にはもう内定が出ていました。大学で「勉強した」のは、3年生の「レポート提出」、地獄の4ヶ月間だけだったと言えると思います。

 アメリカの大学では、その「地獄」が4年間続くわけですから、すごく実力がつくと思います。それで、途中で脱落する人も多いようです。

 その後、僕たちが泊まった「野尻湖ホテル」はなくなり、草ぼうぼうの空き地になったそうです。若者たちの「夢の跡」ですね。

韓国とお別れのとき

文在寅政権の韓国とお別れのときがきました。

 つい数日前、中国の外交トップであり、外務大臣より上位の「Y」氏が韓国を訪れました。

 目的は、韓国が中国の「属国」であることの念押しです。

 今、中国はアメリカと大喧嘩の最中です。南シナ海や台湾で戦争になるかもしれません。

 韓国は、アメリカの軍事同盟国で、いまだに、1950年に始まった朝鮮戦争は終わっておらず、休戦状態です。韓国・アメリカ連合軍vs北朝鮮・中国連合軍です。

 アメリカは、朝鮮戦争で、韓国を守るために、5万人の兵士を失いました。

 しかし、現在の文在寅大統領は、アメリカを捨て、中国側につくことに決めたようです。

 中国は韓国にとり、最大の輸出相手国であり、これを失うと、韓国は生きていけません。

 韓国は、第二次大戦後、自由主義経済体制のもと、日本の経済援助により、「奇跡」と言われる経済成長を遂げ、アメリカに大量の輸出を行い、先進国の仲間入りをしました。

 その間、中国は、毛沢東文化大革命により、大いに遅れをとりますが、鄧小平の「改革開放」政策により、近年急成長し、今やアメリカを抜いて、韓国の最大の貿易相手国になりました。

 中国の人口は14億ですから、巨大な市場です。中国に輸出できなくなれば、韓国経済は崩壊します。今回、中国のY氏は、それを言いに来たのです。

 ところで、2020年8月29日に、グアムで、日米防衛大臣が会談し、北朝鮮をどうするか、中国をどうするかを話し合いました。この会議は、日米韓の3国会談のはずでしたが、韓国は参加を断りました。

 

これで、韓国が中国側についたことが明白になりました。

 

日本の銀行が韓国に金を貸すのをやめると、韓国経済は死にます。

韓国は、文在寅を大統領から下ろさないと、死にます。

文在寅大統領は、北朝鮮に持参金つきで「嫁入り」することばかり考えています。

非常に危険な社会主義者、独裁者です。

レポート提出

大学時代の、レポート提出の経験をお話しします。

   慶應大学3年生になり、日吉キャンパスから三田へ移動、貿易論のゼミナールの面接を受け、入りました。

  ゼミが始まり、3年生の「修行」であるレポート提出が始まります。先輩の4年生たちは、笑いながら、「大変だよ、頑張れ」と言っていますので、相当大変らしいです。

   ゼミの授業は毎週月曜日、先生が3年生にレポートのテーマを出します。友人の資料によれば、最初のテーマは、『日本貿易構造の特質とその進路』でした。文献を調べ、レポートを書き、翌週のゼミで提出です。合格となれば良いですが、「再提出」となると書き直しです。したがい、翌週には「再提出」と「新提出」の、2つのレポートを提出です。「再提出」がたまって、ある週に7つも提出した強者もいたらしいです。

 

  神田の古本屋街に行き、参考文献を探して歩きました。僕たちの先生は、

近代経済学派なのに、うっかりマルクス経済学派の先生の本を買ってきて、レポートの「参考文献」に含めた、などという者も出て、笑い話になりました。

   毎週月曜日の提出なので、日曜日はだいたい徹夜でした。レポートを書くというよりも、文献を写すという感じで、かつレポートの枚数を増やすことに腐心しました。枚数が少ないと「再提出」にならないか、という「心配」があったからです。

   こうして、4月から7月の野尻湖夏季合宿までに、12本のレポートを提出しました。毎週が波乱の「ドラマ」で、鍛えられました。序文から始まり、起承転結、最後に参考文献のリストをつけて終わるのですが、この「修行」は、いろいろな面で、社会人になってから役立ちました。神田の古本屋巡りも、このレポート提出がなければ、味わうことはなかったでしょう。

   夏休みにゼミの宿題がでました。欧米文献を読んで、レポートを書くのです。僕は、しっかりレポートを書いたのですが、それを、新学期に、電車の窓から外へ落としてしまいました。先生に1週間待ってもらい、もう1度、書き直しました。大変でしたが、2倍勉強ができて、良かったです。

   友人の記録によれば、冬休みにも、欧米文献の宿題がでて、3人ずつ集まり共同でレポート作成。締め切りの12月30日午前0時の1分前に、先生のお宅に駆け込んで提出し、終電が終わったので歩き、自宅に帰り着いたのは明け方だったという豪傑もいました。